
Art of Lifeとは、生き方という意味。
インタビューで発せられた想いを
そのまま起こすスタイルにしています。
世界で活躍する人達の
生き方をテーマにインタビュー
~Art of Life Interview~
竹中健太郎さん
Western Union Business Solutions Corporate Hedging Manager
Singapore
【ベストじゃなくても】

人生、ベストの選択肢を選択できたら最高だけど、選択肢がそれしかないと思わないこと。
最悪なことは何かを考えて、それ以外ならよしとする。
ベストでなくても、2番の選択でも、そこから道が開く。
ー シンガポールにきたキッカケは、どんなことだったのですか?
7歳の時。
当時日本社会は「バブル」と言われていて、色々なところで経済が潤っていて、それで母が、僕をハワイとロサンゼルスに連れて行ってくれたんです。
母がレストランでコーラを頼む時、「スモール」と言っていて。それが小さいという意味はわかったんですが、それでも来たのは大きくって。観るもの何もかもが華やかで大きくて、子供心にアメリカに憧れたんですね。
それから漠然と、海外に憧れを持ち始めました。
中学校、高校では、英語だけはを一生懸命勉強しました。受験英語というよりも、実践的な英語。映画を見ながら、「こういう言い回しなんだ」とか。その時も将来は海外に住みたいって、ずっと思っていたんです。
ー 小さいながらも、いつか住みたいと憧れたのですね。
ただ、バブルもはじけて、経済的に大学に進学するのが難しく、当時あった大阪府立の貿易専門学校に行ったんです。その学校の研修で、シンガポールに来たのが、僕とシンガポールとの出会いです。
ー シンガポールに来てみて、どんなことを感じましたか?
学校で習った英語じゃないなって、思いましたね。(笑)音が飛ぶんですよね。
例えば、言葉の最後に 「dとかed」 で終わるもののは、その「d」を発音しない。逆に、これまで学校で習った英語が間違っていたんじゃないかって、そう思っていました。(笑)
それも含めて、「こういうことが、海外ってことなんだ」と、そう思いました。
それからオーストラリアで、ひと月ほど留学し、海外で暮らしたいという思いが、一層強くなりました。それで海外と取引がある会社に就職したんです。
ー それは日本で?
はい。ニューヨーク、香港などをはじめとする主要国にオフィス、中国や中南米に工場があり、ヨーロッパにも取引先を抱える、中小企業ながらもグローバルな繊維専門の商社に、就職したのです。
最初に担当した取引先は、韓国、サイパン、そしてドイツと。仕事は楽しかったですね。
周りがとてもよく可愛がってくれました。よく言われていたのが「お前はホープだ。お前は海外行くぞ」って、よく言ってくれていました。
ただ、その先の一言が、その後の自分を変えちゃったんですね。
ー どんな一言だったのですか?
それは最後に「10年後」って、付いていたんです。
仕事をみっちり覚えれば、10年ご海外に行かせてやる。ただ、若かったから10年なんて待てないと思い、自分で他の仕事を探そうって思ったのです。
いま考えたら上司の言うそれはわかるんですけど、当時は若いからすぐにでも出たい。その思いが溢れすぎて、それで親に相談したんです。家族は大反対で、大泣きだったのですが、じっくり何度も話して。
それでやっと理解してもらい、それから1年くらい職を探して、それでシンガポールに来たのです。
2001年のアメリカ同時多発テロ事件があった頃でしたので、アメリカはVisaが下りにくい、あと「これからはアジアだ」というのもあって、香港、シンガポールを視野に職探しをお願いしたのです。
そこで紹介された先がシンガポールのP&Gで、シンガポールなら学生の時に知り合った友人がいると思って決めました。
そこで春美さん(インタビュアー)に出会ったんですよね。

ー それでやっと描いていた海外生活が、スタートしたのですね。
テンションは上がりましたね。シンガポールの生活への移行は、すごくスムーズでした。
ー 海外初の職場は、どんな感じでしたか?
チーム内は日本人ばかりでしたが、同じ部署としてはいろいろな国の人たちがいて。会社のトレーニングも充実していて、社内のイベントもあって、楽しかったですね。
同じ日本人の同僚たちも、僕には刺激的で。なんせ、東京の人と話したのが、初めてだったんです。本当だ「〜じゃん」とか言っているって。(笑)
ー 大阪では、関東の人には会わなかったの?(笑)
僕の環境では、会いませんでしたね。大阪以外の日本人と会ったのは、初めてだと思います。
海外に出ている人達は、将来のビジョンをクリアに持っている人が多くて、僕は海外で働きたいというビジョンがあって来ましたが、ここで何をしたいかは無かったですね。
ー 確かに、ビジョンがある人が多いかもしれませんね。
周りの影響もあって、海外で何をしたいのかを考えるようになりました。それで、何か勉強を始めようと思って、それを職場の先輩に相談したんです。
「英語をもっと勉強したい、あと大学も行きたいと思っているけど、どう思いますか?」って。そしたら即答で「大学なら英語も学べるし、友達もできるし」って言ってもらえたんです。
それで、仕事をしながら夜間大学に行き始めたんです。
ー 仕事をしながらのチャレンジですね。
勉強することが新鮮でした。
会社でもサプライチェーンとか、マーケティングなど学ぶ機会があったので、専攻は、マーケティング 。そして大学を卒業したら、キャリアチェンジができるといいなと思って、経営、金融も学びました。
大学では、同級生にスロバキアからいらした60代の主婦の方がいたり、もう年齢も人種も様々で、そういう意味でも良かったですね。
ー 今振り返って、その大学生活で得たことはどんなことでしたか?
修了書、英語力は勿論ですが、やはり「自信がついたこと」。
ー その自信は、どんなものでしたか?
仕事の両立ができたこと。
子供の頃は、親に何をやっても馬鹿だと言われて育ったので、自分に自信がなかったのですが、努力をすれば出来るんだ。
やっていけば、「自信」は勝手に付くのだって思いましたね。ただ、勉強は本当に大変でした(笑)
仕事はしているものの、学費を払っていましたので、お金の余裕も無かったので、自炊もしていました。とにかくどうやって時間を有効に使おうかって、考えていました。
ただ、職場では良い先輩たちがいたので、ほんと良かった。試験があって「休みたい」と言ったら、それを優先させてくれて、精神的にヘルシーな職場だった。
これは大きかったなー。

ー そうですね、P&Gは個人個人が何かを学ぶことにとても協力的ですよね。そこには、どの位いらしたのですか?
5年半ですね。
学んでいるうちに、金融業界に行きたいと思って転職活動したんです。ただ未経験ということで、仕事探しは難しかったですね。
それでやっと、日系のメガバンクと言われる銀行で、「給料下がるけどいい?」って、それでも経験になると思って、何でも教えてくださいって気持ちで入りました。
色々なことが初めてで必死でしたね。
ただ、学校で学んだことは役に立って、特に勉強で頑張った「自信」がここでも役に立ちましたね。難しいことでも、わからないことでも、学べば大丈夫なんだって思いました。
ー 学ぶとは、「学ぶという筋肉を養う」ことでもあるのですね。
それは良かったなと思います。
その銀行では、10年半お世話になりました。部署内でポジションを変え、いろいろな勉強をさせて頂き、そういう意味では飽きることなく、キャリア変更させてもらっての、10年半でした。
ー 一言では言えないと思いますが、その10年半の中でどんなことを得たと思いますか?
色々ありますけど、いまパッと出てきたのは「忍耐」ですね。
例えばP&Gでは、上司に対しても自分の考えを建設的に、どんどん言えましたよね?ここでは、全く逆でしたね。自分らしさを出せなかった。ただ一方で、それもある意味、日本の古き良きやり方で、とりあえず相手の意見を聞くことを徹底しました。
そういう意味での、「忍耐」は得ましたね。
とにかく慎重なので、なかなか進まない。それが例え間違っていても、チームとして同じ方向を見ることが大事なので、自分のことは引っ込める。まずは上司の、そして周りの意見を聞いて、それでやるということを覚えました。それが全体の和に繋がることが多かったからです。
ー P&Gは、逆で「トライ&エラー」で、まずやるという社風でしたものね。
企業文化が180度違ったので、その中でどう自分が適応して行くか、それは身に付いたと思います。
いま転職した先もアメリカの会社で、やはりトライ&エラーな社風なんです。周りは皆、「まずはやってみようぜ!」って、少し無鉄砲なんです。
でも僕は、前社の10年間で養った「和」を重んじる。
みんなの意見を聴きながら、点検しながら進めようが身についているので、「ちょっと待て、まずはルールブックみようぜ、どう書いてあるか確認しようぜ」って、日本人1人というのもあって、良い意味での中和剤になっているんでしょう。

ー その両方を知っている竹中さんだからこそ、良きハーモニーを作れるのですね。いま伺って思ったのは、本当の意味でインターナショナルな場所に属しているのですね。その新しい職場で、どんなことにワクワクしていますか?
シンガポール人でも、挑戦的な人もいれば、保守的な人もいるんです。上司はオーストラリア人で、自分がある意味のバランサー的な位置にいる。
それがすごく楽しいですね。
全体を見たときに、どの役割が不足していて、誰がそこに適任か、自分は出来きないのかなど、模索しながら全体を見ていますね。
ー シンガポール生活も17年。改めていま、竹中さんはシンガポールをどのように見ていますか?
この国もいよいよ発展してきたなと思っています。
誤解を恐れずに言えば、来た当時、心のゆとりがない人が多いなって思っていたのです。例えば、レストランで働く人は、学がないからあのような仕事をしているとか、そんな声が聞こえてきていたんですね。
自分が育って来た環境とは違うなーって、思っていました。
ただ、最近ね。シンガポールの若者達がカフェを始めて、すごく成功しているんです。昔はカフェを開くなんて、いい仕事ではないという感じだったけど。
今は好きなことを職業にする人が増えて、理想的だなって思うんです。
経済の成長だけではなくて、人、文化面でも成長して来ているんだなって思うようになり、益々住み易くなりましたね。

ー 竹中さん自身も、子供の頃に描いた海外で暮らすことを、ここシンガポールで実現したんですね。
いまでも思うのは、普段から考えるのは大事ですが、悩むことに多大な時間を費やすより、まず一歩踏み出すことが大事だなって思いますね。
大学行ったのも英語勉強したいからで始まって、先輩のアドバイスを聞いて、素直にそれだって思ったから行った。転職も、大学を卒業したから学んだことをやってみたいって。
これまでも、完璧な計画なんて持ってなかった。
「ふんわり」でいいから、自分のビジョンを持ってやっていけば、道は開けるんだと思います。
ー そう、ふんわりと!竹中さん自身が、これまでの人生を振り返って見て、自分の人生から問われていることは、どんなことだと思いますか?
自分や自分の周りの人も含めて、「ハッピーか?」
ハッピーになるために、「どうしていきたいの?」って、問いですね。そして、その答えは、「だからこうしている、今の自分が居る!」かな。
小学校6年生の卒業文集に書いているんです。「人生は、楽しもう!」って。
僕、いつも思っているのが、「人生、ベストの選択肢を選択できたら最高だけど、選択肢がそれしかないと思わないこと。最悪なことは何かを考えて、それ以外ならよしとする。ベストでなくても、2番の選択でも、そこから道が開くよ」って思う。
ー どんな選択肢からでも、道は開けて行けるですね。その問いを踏まえて、これからの人生に、どんなことを感じていますか?
これからは、私の成長というよりかは、息子をどうやって育てたらいいかなってことが、自分の成長だなって思っているんです。
時々ね、僕も人間だから、息子にね、理不尽なことで怒っちゃうことがあって。僕が、あとで泣きそうになるんです(笑)ワ〜って。
こういうことが積み重なって、僕も成長しているんだなって思うんです。
妻と、どんな学校に行くのがいいのか話していますけど、なかなか答えでないですよね。息子にとってどれが最良の選択肢なのかって考えても、もう、ほんと、判らないですって。
こうやって、息子の成長を通して、親としての自分が成長するのですね。
ー まだまだこれからも竹中さんご自身の中で、変化が起きていくのでしょうね。
ほんと、出会って来たみんなが自分の資産だなって思います。
このインタビューを機に、またみんなとConnect、Reconnects(再会)ですよね。南米にいる、ヨーロッパにいる友達とかにも伝えたい。大げさなことじゃなくて、僕もこうやって元気にいるよって。
ー そして、いつか大きくなった息子さんにも読んで貰えますね!
普段、なかなかじっくりと自分を振り返る機会が持てないので、本当に良い機会になりました。

Mr. Kentaro Takenaka
P&G、日系の銀行の経験を経て、Western Union Business Solutions Corporate Hedging Managerとして活躍。シンガポール在住