
Art of Lifeとは、生き方という意味。
インタビューで発せられた想いを
そのまま起こすスタイルにしています。
世界で活躍する人達の
生き方をテーマにインタビュー
~Art of Life Interview~
奥村健治さん
アコースティックギター製作家
LONDON
【夢を奏でる】

挑戦すること。長年の夢を持って、その願いの先をみるために。
たとえ、頼るものは自分しかない状況でも、諦めずにいることの大切さを、奥村健治さんのお話を聴いて改めて思います。
夢も、ギターもその思いを大事に、大事にして作りあげていく、その先にあるものを見るために。
人生の夢を奏でるとは?
ー 奥村さんは海外にいらして、どの位になるのですか?
アメリカ、少しスイスにいてアムステルダム、そしてロンドン。海外⽣活はもう、25年ですね。
ー 海外にいくことになったきっかけか、どんなことでしたか?
物⼼が付いた頃から海外に興味があって。佐世保⽣まれなので、アメリカ基地が近いのもあって、同じ幼稚園には、ハーフの⼦もいましたし、英語は分からなくても、アメリカ⼈の⼦ども達と遊んでもいました。
アメリカオンリーの、アメリカかぶれでしたね(笑)
ー そんなに⼩さい頃から憧れていたのですね。それでアメリカへは、どんな形で⾏かれたのでしょうか?
初めてのトライは、17歳のとき。
地元の進学校にいたんですけど、⼀⼈ひとりの個性を尊重するよりも、如何に何⼈⼤学へ進学させるか? その⼈数のための教育という感じがして、とても嫌でした。
アメリカンスクールに通っている友⼈が何⼈かいたので、⾃分の学校のことを話すと、彼らの学校はそんなことないよと⾔われて。丁度、アメリカに帰国する友⼈がいて、それだったら⼀緒に俺とアメリカに⾏って、地元の学校に⾏けばいいって⾔ってくれたんです。
⾃分は凄く舞い上がってしまって。
でも結局、その帰国した友⼈からの連絡はなくて、その後、この話を聞いた他の友⼈が、俺は約束守るからって、その友⼈がアメリカに戻った後、彼の通う学校に話してくれたんです。
それで、その学校からも来て良いって、お⼿紙を頂いたんです。⾏く為には、学⽣ビザを取らなくてはならず、必要書類を作って、その学校に送ったんですが、でも返事が来ない。
待っても、待っても来ない。
年が明けて1⽉になって、それでどうしようと思って、⾃分で⾊々と調べたら、観光ビザで⼊国しても、学⽣ビザに切り替えられる可能性があるって、書いてあったんです。
「これにしよう!」って。もう17歳ですから、⾏ってしまおうって。
ー 当時はネットが無い時代ですから、調べるといっても。。。
そうですね。本屋で、雑誌とか本とか読んで。
実は学校に内緒で、アルバイトしていたんです。そのお⾦で、やっと⽚道切符ですよ。当時は、航空券⽚道切符でも⾏けたんですよね。それで、ひとりロサンゼルスに⾏くことにしたんです。
⽻⽥空港から⾶⾏機に乗ったら、それはホノルル経由、ロサンゼルス⾏きだったんです。全く何もわかってないから、⾶⾏機の中で「やった!ホノルルに⾏ける」って喜んだのです。
ー ハワイ経由だったのですね。
そう、それでハワイで⼊国したんです。
でも⼊国審査で、17歳でしょう、⽚道切符しか持ってないでしょう? コイツ、怪しいと思われて、荷物を全部調べられたんです。そしたら、学校の書類を⾒つけられて、「オマエ、観光じゃないじゃないか」って⾔われて、このままロスに⾏ったら、強制送還になるぞって。
もしこのまま帰れば、キャンセルしてやると⾔われて、強制送還になったら、1年はアメリカに⼊れないぞ。このままキャンセルしろと⾔われて。
まだ17歳ですから、ビビってますから、もう帰りたいってなって。それでホノルルのイミグレーションの監視のもと、1泊して、そのまま帰国したんです。
後にその学校に問い合わせて分かったのは、送ったはずの書類が届いて無かったんです。また送り直せば⼊学⼿続は出来たのかもしれませんが、貯めたお⾦は、そのチケットで使ってしまったし、親も、もう出してくれない。
結局、⾏ってないまま。
それが最初のチャレンジです。

ー いま振り返って、その17歳の⾃分を⾒てどんな⾵に思いますか?
その時の⽅が、度胸がありましたね。
いまなら、もう出来ないです。(笑)
ー 凄い勇気でしたよね(笑)
どうにかなるさって思いでしたね。
勿論、ドキドキしていましたよ。
家族と別れたときに、もの凄く寂しくなって。
佐世保から、夜⾏で岡⼭まで⾏って、そこから新幹線で東京まで出て、右も左もわからない状態でしたから。
ー やむなく戻って来て、逆にもっとアメリカに⾏きたいって思いは募ったのではないですか?
どうにかしてアメリカに⾏って、そこで⼤学に⾏って。
漠然と英語関係で仕事したいと、ただ漠然となんですが、兎に⾓、アメリカに⾏きたいって、ずっと思っていました。
ー それが実現したのは、いつなのでしょうか?
10年後ですよ。
アメリカに⾏ったのは、27歳の時です。
⾃分はアメリカの⼤学に⾏きたいと思って、⽇本の⼤学には⾏かず、仕事しながらお⾦を貯めていたんですよ。でも、中々お⾦は貯まらないし、段々どうしようかなって思っているうちに、21歳になってしまったんですよ。
21歳のある時に、友達が⾳楽雑誌を僕の所に持って来たんです。
その中に、4〜5ページ程、アリゾナ州にあるギター製作学校の事が書いてあったんです。そこに⽇本⼈が留学していて、現地のことをリポートしていたんです。
それを⾒た時に、「これだ!」って思ったんです。
ー それはどうして、そう思ったのですか?
まずは、アメリカに⾏ける、英語が使える。
アリゾナ州の砂漠の中にある学校で、⾃分がイメージしていた⻄部劇に出る様なアメリカだと思って。元々物作りが好きで、図⼯とか好き。それでギターが⼤好き。
全部揃っている。「あっ!これをやろう」って。
でも、お⾦がないんですよ。学費、滞在費など、⾏くなら永住したいと思っていたので、その費⽤など。
貯めるのに、6年間かかりました。
途中、諦めかけたこともあったのですが、どうにかして、27歳の時にやっと⾏ったんです。
ー 夢を持ちながらも、おっしゃったように途中で嫌になることもあるとあったと思うのですが、⾃分でその気持ちをどのように戻していたのでしょうか?
楽観的になんですよね。
切り替えるのは、早い⽅だと思います。どうにかなるさって、これまでも嫌なことは沢⼭ありましたけど、どうにかしてこれまで来ていましたし。
落ち込んでも、「どうにかして⾏けるさ」って思っていましたね。
ー 10年かけて。いざアメリカに⾏ってみて、どんな気持ちでしたか?
⼦どものころ、シェリーってアイドル歌⼿がいて、彼⼥が主演の「オズの魔法使い」ってドラマがあったのですね。その中に「虹の彼⽅に」って曲があって、虹の向こうは、アメリカがあると思っていて。
だからやっと、Over The Rainbow.
その向こう側へ⾏けたって感じでしたね。

だけど、学校を卒業してカルフォルニアに引越をし、やっと⾃分の⼯房も持てたのですが、ビザの関係で⽇本に戻らなくてはならず、仕⽅なく帰国したんです。
ー やむなく、⽇本へ帰国されたのですね。
⽇本では⼯房を持つのは⼤変で、ギターリペアだけをしていました。
そんな頃、イギリス⼈と出会って、ヨーロッパに移ることになったんです。それからスイスと、アムステルダムにしばらく滞在し、97年にロンドンに来ました。
ー ロンドンにきて、どんな⾵に感じましたか?
あまり海外に来ているって感じがなくて、⽇本に近いっていうか、勿論それとも違うんですが、アメリカは何でも⼤きいので、その感覚が違いますね。
ロンドンも、もう21年⽬です。
ー ⻑く滞在しているのが夢だったアメリカでなく、ロンドンというのも不思議ですね。
ヨーロッパに住むなんて考えたことは、⼀度も無かったですし、⼦どもの頃からあれだけアメリカに住みたいと思っていたのに、不思議ですよね。
あの頃の⾃分を振り返ると⾯⽩い。
将来のこうなるんだぞって、全く分かっていない奥村健治が居たってことが、⼈⽣って、不思議だなって思いますね。
ー 本当ですね。でも時に⽅向が変わっても、その流れに緩んでいくって⼤事ですよね。
僕は、後悔しないようにしています。
後悔してしまうと、今⾃分に起きている良い事が、無かった事になってしまう。過去を否定してはいけないなって思うんです。いまの⾃分を肯定する為には、過去は気にしない。嫌な事も、起きるべきして起こったと思っています。
いま、ここにいる⾃分。
全ては起きるべきして、起きたことだったと思っています。

ー ロンドンでビジネスをスタートされて、どの位になるのですか?
独⽴してもうすぐ、6年です。
21歳の時に思ったことが、まだこれ位か、まだ駄⽬だなって思う反⾯、それをずっと持ち続けて来たのは、⾃分の⾃信になっているかな。
でも、アコースティックギターの製作をしている⽇本⼈は、ここイギリスで、僕⼀⼈なんですね。
ー ギター製作の中で奥村さんが⼀番楽しいと思う所は、どんな事ですか?
作業によっては、体⼒を使う仕事もあるんですが、拡⼤鏡を使うような細かい作業をするのは、楽しいですね。
ー ギターを⼀本作製するに、どの位⽉⽇を費やすものなのでしょうか?
約4〜5ヶ⽉ですね。
ー ギター製作中、奥村さんが⼤事にしていることは、どんなことですか?
勿論、失敗をしないことですし、構造や強度、⾳のことを考えながら作るのですが、それとは別に、ギターって⽊でしょう?
幾ら切ったって、⽊は⽣きているんですよ。だから⽣き物だって思っています。
良い⾳になれよ、良い⾳になるぞって、⼼の中で話しかけながら、これが世界最⾼のギターだと思ってやっています。(笑)
ー 逆に、ギター製作で⼤変なことはどんなことですか?
頼るものは⾃分しかいないってことですね。
でも、ギターのリペアをしてきて良かったと思うのは、もの凄く勉強になるんですね。なぜなら⾊々な⼈が作ったギター、値段も様々なので、⾊々な作製⽅法を知ることが出来るんですね。壊れた原因もわかりますし、リペアの⽅が難しいんです。
場所によっては元に戻すってことの⽅が⼤変なので、⾊々なものを扱うことに関して、度胸が付きましたね。

ー これまで海外に⾏くこと、好きなことをやっていくお話を伺ってきましたが、奥村さんと同じように好きな事で海外へと考える⽅達へ、もしメッセージを送るとすると、どんなことをお伝えしたいですか?
やること。
もう、ただやることですよ。
何年も何⼗年かかっても、やりたいことをやることですよ。成功するかしないかはわからないけど、⾃分で切開いていくしかないですよ。
⾃分もこれまで嫌なことは⼀杯ありました。でも続けてきたらか、例えばこうやって取材を受けたりするので。
続けていれば、こそです。
ー これからご⾃⾝の、どんな展開を考えていらっしゃいますか?
僕はギター製作、これ⼀本です。
チャレンジという意味では、他の国からもギター製作の注⽂を頂けるようになりたい。
プライベートでは、ギターを弾いてのんびりと楽しみたい。ロンドンで沖縄⾳楽フェスティバルがあって、そこで演奏の依頼を頂いたんです。そうした楽しみもこれからはしていきたいですね。

ー 奥村さんのギターを持っている⽅は、どんな⽅がいらっしゃるのですか?
ベン・テーラー(ミュージシャン)が購⼊してくれて、2本⽬も買ってくださって、それを彼のお⽗さんのジェイムス・テーラー(シンガーソングライター)にプレゼントしたんです。
ジェイムス・テーラーには、専属のギター製作家がいるので、僕のギターを公の場では使⽤することはないと思いますが、嬉しかったですね。
あと、シンプリー・レッド(英国のロックバンド)のギターリスト、鈴⽊賢司さんのギターを、リペアをさせて頂いたこともあります。
ー ⽇本のアーティストで、奥村さんのギターを弾いて貰いたいと思う⽅はいらっしゃいますか?
アコースティックギターを弾かれる⽅なら、ぜひ。
僕のギターを弾いて貰えたら嬉しいです。そういう意味でも、まだ夢がありますね。
ー 奥村さんのブログの読者の⽅にメッセージをすると、どんなことをお伝えしたいですか?
全⾝全霊で作っています。
僕のギターを弾いて欲しいですね。
ギターには、3つの要素が必要なんですよ。
⾳
弾き易さ
⾒た⽬
この3つの要素が揃ったものが、素晴らしいんですよ。
僕のギターは、和のテイストを残してシンプルに、そして、弾き易さを重点に置いています。ギターショップで⽬を引くのは、やはり⾒た⽬なのですね。僕のオリジナリティを残して、シンプルだけど、⽇本的なアートも取り⼊れたい。
僕のギターのヘッドにつけているロゴは、漢字を元にしているんですが、「奥」ではないんですが、「奥」に⾒えるんですよ。(笑)このロゴは、こちらの⼈からも、⽇本の⼈からも好評なんです。

無限の組み合わせで⾳を奏でられる。
ひとつのアートとして作った⾃分のギターが、別のアーティスト、ミュージシャンによって新しい感動を⽣むって、⾃分でも素晴らしいと思うんです。
アートが、アートを⽣む
天職だなって思っています。
ー それが時空を超えて⾊々な⼈の⼼に響いていくって、もの凄いことですよね。⾳で多勢の⽅の⼼を動かし、その⽅達の未来を⽣むものになる。
⾃分が知らなくても、そして⾃分が死んだ後でも、僕のギターで、世界のどこかで感動が起きているかもしれないと思うと、夢があるじゃないですか。
ー 21歳の時に、これと思うものに出会ったというのも、運命かもしれませんね。
僕は、21歳でこれだって思ったんですが、実際にギター学校に⾏けたのは、27歳。
いまでは製作⽅法もYouTubeで⾒れちゃうし、⽇本でもギター製作家として活躍されている⽅は多いんですけど、僕の頃は、⽇本に学校がなかったですし、親の経済的援助も無く、海外でギター製作家として辿り着くまでの道のりが、もの凄く⻑かったんです。
でも、あの時
17歳でひとり⾶び出したことが、いまでも⾃分の⼒になっています。
