
Art of Lifeとは、生き方という意味。
インタビューで発せられた想いを
そのまま起こすスタイルにしています。
世界で活躍する人達の
生き方をテーマにインタビュー
~Art of Life Interview~
三上 薫さん
Lybliss代表 起業家・ベリーダンサー
Tokyo
【すべての人が歓びから生きられる社会を創る】

“LIVE YOUR BLISS, UNLOCK THE INNATE”
すべての感情を味わいながら、生きる歓びから生きられる社会を創りたい。
その時には不本意だったり、悔しかったり悲しかった経験も、このためにあったのじゃないかって思える日がいつか来る。
どんな経験も人に貢献できる何かに活かせるというのは、人間のすごい力だと思う。
ー 初めてお会いした時に、昭和の人気テレビドラマ「太陽にほえろ!」に、子役として出てらした聞いて驚いたのですが、それはどんなきっかけだったのですか?
両親が自分達が出来なかったことをさせたいという思いで、2歳のとき「劇団ひまわり」に入れられたのです。
その頃のことは覚えてないけど「太陽にほえろ!」に出演したのは4歳でしたので、少し記憶が残っています。
ー 4歳だと自分で演技している感はあったのですか?
演技していましたね。
自分が何者かがわからないのに、その前に演技しなくてはならないじゃないですか?この過酷さを、親は全く想像してないと思いますが、私はそれを体感していましたね(笑)
ー そんな貴重な体験をされた薫さんですが、現在のお仕事はどんなことをされているのですか?
イノベーション志向の企業向けの事業開発支援と、自社では企業人向けのストレスケアの事業を行っています。
ー 事業開発、経営コンサルティングですね?
キャリアのスタートとしては大学卒業して会計士になったのですが、「人と一緒に新しい価値を創り出す活動」に興味があった。
昔から、人の作ったゲームをプレイするのではなくて、そのゲーム、ルールを作りたいと思っていたのです。
ー その昔からというのは?
原点をいうと、子どもの頃から生きづらさを感じていた。
マイペースな子だと言われてて、なかなか人と同じようには出来ない。そういう資質を持った上で、2歳で劇団に入り、置かれた環境も周りと違う。
子どもらしい生活とは違って、稽古、オーディション、それが受かれば撮影で、家でも台本を読む生活。仕事が来れば来るほど親は嬉しい、でも私の子どもの時間が減っていく。
ー テレビみて「楽しい」みたいな感覚がちょっと少ないような。
自分がそのままでいられない時間が長くなって、しんどくなってしまいました。それで小学2年の時に子役の活動を辞めたのです。
親はね、期待するのは自由なので(笑)どこかでこのまま女優になってくれたらっていう気持ちもあったようだけど、小学生にもなると、与えられる役もリアリティー(現実)と合わなくなってくるので苦しくなって。
ピアノも習っていたのですが、いつしか、親が次から次へと応募するコンクールに出て、ひたすら評価されるためにやるようになっていて。
人生の前半は、自分が意図してなくても、芸能・音楽のプロになることを期待されていたんです。
ー それでルールを作る側になりたいと?
自分としては「表現者」としての挫折感があったので、それまでのように特定の誰かの「目に見えない期待」に合わせるための演技を続けるのは、もう無理だと。
そこで、もっと自分で努力すれば出来そうなことがないかと、模索し始めたんです。
大学に入ってからかな?卒業後はどうしようと思った時に、「ビジネス」をやるのはどうだろうって思い始めて。
当時の私は、ビジネスが何たるかはよくわかっていなかったけど、領域としては幅が広いし、自分でルールを作る側になれるのではないかと思った。
「ビジネスは社会を動かす活動」で、それを通じて次の社会を作ることをしたいなって思っていたのです。
大学では文学部で宗教学を専攻してたのですが、当時は「就職氷河期」だったこともあり、まずは「ビジネスの言語」といわれる会計を学んで、同時に手に職をつけるのがいいかなと思って。
それで公認会計士を目指した。
大学の先輩で、経済学部以外の出身で会計士になった方がいて、そういうキャリアもあるのだとわかったのは、大きなきっかけとなりましたね。
ー 会計は、ビジネスでは不可欠ですしね。
会計士もね、自分が業界のリーダーになれる位のキャリアを積めば、次の会計基準等のルールを時代に合わせて作っていく立場になることも有りうるけど、そこに至るまでは何十年とかかるわけで、それまでは既にあるルールの中でやっていくのですね。
私が監査法人に入ってから、エンロン事件(アメリカエンロン社の不正発覚事件)の影響で、監査マニュアルが形式的に厳しくなりました。その結果、監査人としては自分で考えて仕事をする余地が狭まって、その仕事が苦しくなってしまって。
そこからは、ベンチャー企業の支援によりやりがいを感じるようになり、さらに、自分自身が事業を創る側になりたいと思って、事業開発の会社に転職しました。
ー 一つ一つとはいえ、自分で積み上げていきながら自分が作る側へ行かれたのね。その頃ご自身ではどのように感じていたのですか?
当時は、そう思っていました。
事業を立ち上げるということは結構大変なことで、一つ事業は立ち上げたのですが、その過程で自分が病気になってしまって。
心療内科にかかって、「適応障害」と診断されました。

ー それは激務からの?
社内の力学というか、その政治的な環境にうまく適応できなくて。 私が取り組んでいた新規事業のプロジェクトに対するプレッシャーが凄かった。
新規事業を立ち上げるというのは、その内容が今まで無いものであればあるほどに、想定通りにいかずに時間がかかることも多いもの。
はじめに事業計画は作りますが、計画はあくまで過去の仮説に基づくものなので、ほとんどの場合はその通りにはいかない。
それ自体があってはならないとしてしまうと、非常に苦しくなった。
この例えが適切かわからないけど、子供の発達と近いところがあるかなって、子育てにおいての「あるべき論」って、よくあるじゃないですか?
例えば、ハイハイするのが早い遅いか、離乳が早いか遅いかみたいな。
ー はい、3歳だから〇〇ができなきゃ遅れているとか?
子供にも、いろいろな個性があるよねって思えればいいのですが、「それは親のあなたの育て方が悪い」と責められたら、苦しいじゃないですか?
それと似たような立場だったというと、伝わりやすいかな?それでだんだんおかしくなってしまって。
未経験の業界で、初めての新規事業を立ち上げるというのは簡単に出来ることではないので、いろいろあって大変でした。
立ち上げまで行ったものの、そこで力尽きてしまい、休職することになったのです。
ー それはお幾つくらいの頃だったのですか?
30の頃。 最初ね、産業医に「3ヶ月は休みなさい」と言われたのです。その時は、3ヶ月も休むのですか?って思ったのですね。
でも実際には、翌日からほぼ起き上がれなくなってしまって、復職まで結局6ヶ月かかりました。それくらいずっと我慢して、疲労が溜まっていたってことですね。
ー 産業医に相談する前も、ご自身の中での凄い葛藤があったのでしょう?
その半年くらい前かな。兆候があって眠れなくなることから始まって、何かがおかしいなって思うのです。それがどんどん進行していくのですが、その次は目眩がするようになって。
それでね、周りに相談しても、「医者行ったら」ってなるじゃないですか?当然ですが、相談されても知識もないし。
実は、私は病気になる前に、「コーチング」を学び始めていたのですね。
きっかけは、ベンチャー企業のコンサルタント時代に、ノウハウ的な支援をしていても、クライアントが組織として行き詰まる重要なポイントにアプローチできていない自覚がありまして。
それは「人」の課題であることが多いなって思っていたのです。
当時の私は、それに対して何も出来てなくてフラストレーションを感じて。それでコーチングの勉強を始めていたのです。
なのでコーチングの勉強を始めたら、一番必要だったのは自分だったって感じになるのですけど(笑)そんな中での異変だったのです。
ー そっか。
当時セッションをお願いしていたコーチに相談もしていたのですが、当時の私にはなかなかよくはならなくて。相談してもなかなか理解されず状況が良くならなかったことが、結果的に孤立感につながってしまいました。
結局、どうしようもなくて心療内科に行くことにしました。
病院でね、診断のためのチェックリストがあってそれに答えていくと「適応障害ですね」と診断されて。
さらにしんどかったことは、病院に行ってもらった薬を飲んでも、良くなるどころかさらに体調が悪くなってしまって。処方された薬の影響で、自宅で2度気絶して倒れたことも。
診察ではなかなか話を聴いてもらえなくて、病院も3つ変えました。
そのプロセスが結構過酷で、どんどん弱っていった私は、人生に絶望するところまでいきました。一度死んだような感じでしたね。
適応障害の症状の重さにもレベルがあるのですが、私はね、本当に考えられなくなってしまった。脳がストレスで疲労し過ぎて、強制停止状態になっていたんです。
それまで頭を使うことで生きてきたので、アイデンティティが総崩れになりました。
ー 大変でしたね。それで、どのあたりから自分で仕事しようかなって思うようになったの?
途中からお世話になっていたカウンセラーの方には、どん底の時にも面談していただいていました。それから、3つ目の病院の先生は、ちゃんと話を聞いてくれる方だったことは、大きな救いになりました。
それから、人間の身体にはすごい回復力があって、ちゃんと休むと生きる意欲が湧いてくるというか、何かしたい、外に出たいと思うようになってくる。あと、休職だったのでいつか戻るというのはありました。
後から考えれば、あのまま経営できていたかというと、その力がなかったと思う。それで自分で経営出来るようになりたいと思って、兼ねて興味のあった「MBA(経営学修士)」を取ろうと思い、一年後オランダの大学に留学したのです。
ー 前に向かえるようになったのね。オランダでの生活はどのようなことを思いましたか?
オランダ人は自立心旺盛で、どちらかといえばゲームを作る側の発想をする人が多い。
クラスは140人くらいで、最大勢力はインド人。40カ国から来ていて多様な中に居ると、「お前は何者だ?」って問われることになる。
自分は凄い弱いなって思った。
オランダに居て一番大きく思ったことは、特に自分がですけど、日本人として生きてくると自分を表現したり、持っている資質を活かすことにエネルギーを使うよりは、いかにそれを抑圧するかということに使う。
日本社会に沿って「こうあるべき」という枠にハマるために、エネルギーを使って来たんだって気づいた。
ー 本当にそう感じますね。そこに自分を当てはめるために自らをシェーピング(削る)して、やっと輪に入るって感じですね。薫さんが先ほどおっしゃった「弱いなって」どんなことを指すのですか?
自分のパワー(本来の)と繋がれてないってことかな。
自分を矯正することに使っているから、結果的に弱くなる。コーチングでもよく言いますけど「自分が何者と思っているか?」が重要だって言うじゃない?
自己認識、アイデンティティね。自分が弱い人間だって思っているとそうなると言うように、そう生きて来たんだなって思う。
その前提を持ったままで、世界に出て周りのように強くならなければと思うと苦しくなる。前提が違うから。

ー 車のギアが違うのに、グーッといくみたいな?
ブレーキを踏んだままアクセルを踏むような。もっと強くなれと、2倍アクセルを踏むようになるから、ものすごく苦しい。
ー その差を体感してオランダから戻られて、自分は変わったと思いますか?
思いますね。留学して思ったのは、英語で仕事ができれば究極どこでも生きていける。
友人を見ていると、例えば出身はインドで、ドバイで働いていてオランダの大学に来ました。それで今度どこに行こうかなって言ってて、そうやって大陸を超える事は普通だし、いくらでも選択ができる。
そう思った時、これまでの自分の価値観が一旦リセットされるよね。
それまでは日本、東京しか見てなかったけど、いく場所をグローバルとしてみると、視点が上がるんだなって思った。
それで自分は卒業してどこに行くって考えた時に、東日本大震災があったことが大きなきっかけとなって、自分は根を張ることでコミットしたい、日本を良くしたいとも思った。
それで帰国して、新規事業のファイナンスマネジャーとして、外資系メディア企業の日本法人に入ったのです。
ー オランダの経験も生かして、新天地としての東京でのチャレンジ。
その会社の中でも、結局「人」だなって思った。
これは一般的にも起こるのですが、うまく行かないことが起きると、段々チームが同じ方向を向かなくなって、悪者探しに陥ってしまったり。
例えるなら同じボートに乗りながら、互いに逆に漕ぎ出すみたいな。だからますます先に進まなくなるじゃないですか?
これは「ビジネス的に解決する」というよりは、「人」だと思って、人事でもないのに組織改革をするプロジェクトを立ち上げたのです。
ファイナンスマネジャーとは、事業を成功させるための支援だと思って、提案をして、大変な面もあったのですがやりました。それで良くなって業績も上がったのです。
この経験で自分がずっと考え続けていたこと、探求してきたこと「人の意識を扱う仕事に注力しよう」と思った。

ー それが2015年にスタートされて、その流れでストレスケアの事業も?
いま事業で使っている「頭のデトックス」の手法に私が出会ったのは、当時、NLP(神経言語プログラミング)の勉強中でした。
自分がコーチングセッションをするようになって、あるクライアントさんが特定の考えに囚われて無限のループに入ってしまっていて、それを言葉で色々と介入するのだけど、結局戻ってしまう。
言葉の限界を感じたことがあった。
それで何か他に可能性がないかなって思っていた時に、以前受けたその施術のことを思い出したのです。もしかしたらという思いでクライアントさんにご提案して。
受けて貰ったら変わったんですよ。あら、びっくりみたいな。そのループから、クライアントさんが抜け出したんですよ。
実際に、アメリカの心理学者の研究で、鬱や不安障害の症状が8割も緩和したというデーターもあるのですね。それで自分も学んで施術を出来るようになりました。
自分が病気になった時にこれが受けられたら、どんなに救われたかって思った。会話することもいらないから、話を聞いてもらえない、わかってもらえないのジレンマもないし。
ー 私も受けたことがありますが、とてもスッキリ感がありましたね。
当時はね、適応障害になったことは恥だとされていて人に言えなかった。でも現実は、もの凄い人数の方が患っていて、しかも益々増えていて。
これだけ不調な人が増えているということは、既存のメンタルヘルスケアの構造やアプローチを変えなくてはならないのではと思って、ストレスケアの事業も立ち上げた。
このクライアントさんは元気な方でしたけど、囚われから自由になって次のステージに上がるための貢献になったんですよ。
「頭のデトックス」、不調がなくても、誰にでも受けて頂けるものです。
ー これまで薫さんの過去を振り返ってお話頂きましたが、ご自身で今どんなことを感じていますか?
「統合されている」感じがしている。
その時には不本意だったり、悔しかったり悲しかった経験もこのためにあったのじゃないかって。全て素材になっていて、それを使って人に貢献できることは大きいなって思う。
11月から株式会社として組織を作って次のステージですが、会計士としてスタートして、今また経験が戻ってきているって感じ。
これから「人生本番」、いつでも常に本番ですけど(笑)
ー 自分の武器を全部持って前に行く感じですね!さて、これからどんな世界を作っていきたいと思っていますか?
これは会社のビジョンでもあるのですが「全ての人が歓びから生きられる」そう生きられる社会を作る。
「全ての人」ってことがポイントだし、「歓びで生きられる」は「選択」なんですよ。
社会的な抑圧がとても大きくて、それが限界にきている。その中で幸せに生きられた時代には終わりが来ている。
次の世界を、みんなが主体的に作っていく必要があるし、生きる喜びを感じられるという動機から日々を生きるのが大事だと思っていて、何を源泉とするか?
それが「歓び」である。「Bliss」と私は言っていますが、全ての感情を味わって生きること。それが喜びだと思っています。
もう一つは、繋がり。
人との繋がりを回復をしたい。
ー 今、出てきた言葉が全て、あの時のご自身に繋がっているのかなと思います。もし、あの時の自分を振り返って言うとしたら、どんなことが浮かびますか?
難しい...、そうだな...。
「世界はそこにあって生かされていた」。
道がないと絶望したとしても実際世界はそこにあって、本当に生きることをやめなければ、生きる道はあるのですね。
その先に思わぬ喜びは待っていることもある。
自分が病気になって思ったのは、その状態が苦しいというより、そういう自分がダメだって思うこと、この世界に生きる資格がないのじゃないかって思うことが苦しいのです。
何か生み出さなくちゃいけない、何かしないといけない、そう出来ない自分は存在価値、存在意義がないと思うことはとても苦しい。
不要な病気にならないようにした方がいいし、そうなる人が減るようにした方がいい。でも、それでも人は病気になる。
自業自得、自己責任ではなくて、それを認められる世界にしたい。
ー 「弱っている」と、互いに言える社会になるといいね。
本来、自分が弱っている状態にいるというのと、弱いはイコールではないのですよ。
どんなに強い人も弱る時はあって、それはその人の価値とは全然関係ないってことを、ちゃんと捉えられたらいいなって思う。
オランダにいて思ったのは、全体的に自分の強さを認めている。あんな小さな国で強国に挟まれていても経済、文化的にも強いのは、その結果ではないかと私は思うのです。
同時に興味深いのは、社会制度が充実して、街にホームレスがいないのですよ。誰でも入れるシェルターがある、そういう場がみんなに開かれている。
独立、自立心は強くて、責任は取るのだけど、それが自己責任論ではない。

ー 弱いってことを認めるこそが責任なのかもね。
人は弱ったり、病気になったり、ホームレスになることはある。
ー ヨーロッパは、ある種「生きる」ということに対してとても成熟しているね。さて、私は「H SEEDS」と言う社名で活動していておりまして、ハピネスやホープのHの種なのですが、もし薫さんが、「この人生で一つだけ種を播く」としたら、それはどんな種だと思いますか?
そうだな....キーワードとして出たのは、「繋がり」。
自分との繋がり。人や自然、世界との繋がりもそう。
「喜び」はどんな時に感じるかって、人との繋がりの時に感じると思うのです。
ー 「頭のデトックス」も繋がりだもんね。
皮膚、肌に触れるのは大きいね。
AI、テックとか無機質なもの、リアリティーじゃないものに価値を置くようになっているのですが、それが人間にとって幸せかというと懐疑的で、人や自然とのつながりで、この一瞬でしか体験できないこととか、その一瞬に価値を見出して行くようになると思う。
ー ほんとですね。先ほども過去に戻って色々なことを体現してきているとお話ししてくれましたが、「表現者」としての今後の薫さんは、今どんなことを考えていますか?
「ベリーダンス」
これは自分の軸と思っていて、欠かせない活動の一つです。
最初は、同期の友人がレストランで行われるベリーダンスショーに出るので、一緒に行こうって誘われたのがきっかけです。それで私も興味を持って。
ー なるほど。いろいろなダンスがある中で、なぜ「ベリーダンス」だったのですか?
型が決まったり、みんなと揃えるとか、ダンスはこういうものであるというような枠に当てはめるのが苦手なので。
誤解を恐れずにいれば、プリミティブ(根源的)な感じがして、自分ができる動きをやる。
実はダンスを始めて長いのですが、長い間一度もショーに出たことがなくて、レッスンは行くのにどうしてもショーには出れなかった。
ー そうだったのですね?逆に、それはどんなきっかけで出るようになったのですか?
ある時、自分で決めたのです。それは、「頭のデトックス」の影響もある。
子どもの頃やっていた表現は、評価され、判断されるのが常にセットだった。
今の活動の場(スタジオ)は、互いにフィードバックし合い、励まし合い、自分が意識してない美しさや、気づいてなかった魅力を伝え合うのですね。
表現者一人では成立しなくて、受け取ってくれる人がいないと「表現」は成立しない。見てくれる人いるところでやると育てられる。
子役だった頃の表現=演技ではなくて、私がやりたかったのはこういう表現の仕方だと気づいた。
実際にショーに出て思ったのは、自分を表現することはある種のリーダーシップで、その喜びを表現することで、人に貢献になるとわかった。

ー 薫さんが苦しんだことを解放しながら、ダンスとして表現していくことでまた解放されるような。
年に数回ショーを行っていて、ちょうど先日のショーのコンセプトは「自分の中の闇を表現する」で、これはダンサーそれぞれがその闇を表現するのですが、他のダンサーと打ち合わせしてなくても終わった時に、一つの作品になっているのが面白い。
取り組んでみて気づいたのですが、人の中の「闇」とされるものって、抑圧されたりないことにしちゃう。自分でも社会的にも。それを見守れる中で、安心して向き合って表現する場ってとても少ない。
色々と経験してきて思うのは、「闇」とされていることの中にこそ、本来の自分のパワーとか美しさがあって、闇を抑圧するとは、自分の本来のパワーを抑圧するのと同じ。
自分の中の闇に向き合って深く見ていくことは、時に痛みを伴うこともあるのだけど、実際にそれを表現した時の「統合感」がすごい。
昇華されるような。
そして、見ている人の中にある「闇」ともインスピレーションとして共鳴していくのですよね。
ー ただのダンスじゃないねー。
自分が感じきる。
なぜ、人は踊るかって考えた時に、そういうことじゃないかなって思う。
ものすごい統合されますね。
ー 昔のまるで神様の前で舞うような。
私のダンスはどこか「ストーリーテラーだ」と言われることがあって、舞台の使い方も違うと言われるのですね。もしかしたら、子どもの頃に劇団にいたことが上手く役立っているのかなって。
8歳の頃、挫折し演じることは出来ないと思っていたけど、「表現すること」は楽しいと思えるようになった。
「自分を統合する」という手法として「表現をすること」。それをオリジナルメソッドで、シェア出来たらいいなって思っています。
Ms. Kaoru Mikami
東京大学卒業後、公認会計士として大手監査法人にて会計監査、最大手ベンチャーキャピタルにて上場支援コンサルティングに従事。その後、ベンチャー企業にてアパレル事業を立ち上げる。オランダ・エラスムス大学にてMBAを取得し帰国。2012年より、米系メディア企業の日本法人にて、新規事業担当のファイナンス・マネージャーとして従事。2015年に合同会社リブリス設立し、企業経営者や起業家を対象としたエグゼクティブコーチングやイノベーション支援、新規事業開発、ストレスケア事業も展開中。2019年11月、Lybliss株式会社に組織変更、代表取締役社長に就任。
ホームページ:https://www.lybliss.com/